はじめに
ある日突然、自分が誰なのか、どこから来たのかわからなくなり、知らない場所で我に返る——これは映画やドラマの設定ではなく、「解離性遁走」という実際に存在する精神疾患の症状です。
本人も周囲も理解が難しいこの病気について、発症のメカニズム、症状、診断、治療法、そして家族や周囲ができるサポートについて詳しく解説します。
解離性遁走とは
基本的な定義
解離性遁走(dissociative fugue)は、解離性障害の一種で、突然自宅や職場を離れ、自分の過去や身元についての記憶を失った状態で放浪する病気です。現在の診断基準(DSM-5)では、解離性健忘の一亜型として分類されています。
「遁走(fugue)」という言葉はラテン語の「逃げる」を意味する言葉に由来し、文字通り、心理的に耐えがたい状況から「逃げ出す」ことを表しています。
解離とは何か
解離性遁走を理解するには、まず「解離」という心の防衛機制を知る必要があります。
解離とは、通常は統合されている意識、記憶、アイデンティティ、感覚などが一時的に分離してしまう現象です。軽度の解離は誰にでも起こり得ます(例 運転中に目的地に着いたが、どう運転したか覚えていない)。
しかし、強いストレスや心的外傷により、この解離が病的なレベルに達すると、日常生活に支障をきたす解離性障害となります。
解離性遁走の症状
主要な症状
突然の失踪 何の前触れもなく、あるいは僅かな予兆の後に、自宅や職場、学校などから突然姿を消します。数時間から数日、場合によっては数週間から数ヶ月にわたって放浪することがあります。
自伝的記憶の喪失 自分が誰なのか、どこに住んでいるのか、家族は誰なのかといった、自分自身に関する記憶(自伝的記憶)が失われます。ただし、一般的な知識や技能(言語能力、計算能力など)は保たれることが多いのが特徴です。
新しいアイデンティティの形成 一部のケースでは、全く新しい名前や経歴を作り出し、別人として生活を始めることがあります。これは意図的な詐称ではなく、本人は新しいアイデンティティを本当の自分だと信じています。
目的のある行動 単なる彷徨ではなく、交通機関を利用したり、宿泊施設を探したり、時には仕事に就いたりするなど、一見合理的な行動をとることができます。
突然の回復 遁走状態は突然終わることが多く、ある時ふと我に返り、「なぜ自分がここにいるのか」と困惑します。遁走中の記憶は完全に、または部分的に失われていることが一般的です。
遁走が起こる前の予兆
必ずしも予兆があるわけではありませんが、以下のような徴候が見られることがあります。
- 強い不安や焦燥感
- うつ状態
- 無表情、ぼんやりした様子
- 普段と異なる行動パターン
- 睡眠障害
- 混乱や見当識障害の兆候
解離性遁走の原因
心理的要因
強いストレスや心的外傷 解離性遁走の最も一般的な引き金は、耐え難いストレスや心的外傷的な出来事です。
- 重大な人間関係の問題(離婚、死別、裏切り)
- 経済的困窮(破産、多額の借金)
- 職場での深刻な問題(解雇、重大なミス、ハラスメント)
- 自然災害や事故などのトラウマ
- 戦争体験やテロ被害
- 虐待やDVの被害
幼少期のトラウマ 子ども時代の虐待、ネグレクト、目撃した暴力などが、成人後の解離性障害のリスク因子となることが知られています。
生物学的要因
脳の機能や神経伝達物質の変化も関与していると考えられています。
- ストレスホルモン(コルチゾール)の異常
- 記憶に関わる脳領域(海馬、前頭葉)の機能変化
- セロトニンやノルアドレナリンなどの神経伝達物質の変調
心理的防衛機制としての遁走
解離性遁走は、意識的な選択ではなく、心が過剰なストレスから自分を守るために無意識的に作動させる緊急避難装置のようなものです。「現実の自分」から一時的に逃れることで、耐え難い苦痛から心を保護しようとする試みといえます。
診断と鑑別診断
診断基準
DSM-5(精神疾患の診断・統計マニュアル第5版)では、解離性遁走は解離性健忘の一亜型として以下の基準で診断されます。
- 自宅や職場からの突然の予期しない放浪
- 自分の過去を思い出せない(自伝的記憶の喪失)
- 自分のアイデンティティについての混乱、または新しいアイデンティティの形成
- 症状が著しい苦痛や機能障害を引き起こしている
- 物質や他の医学的疾患によるものではない
鑑別すべき疾患
解離性遁走と似た症状を示す他の疾患を除外する必要があります。
認知症やせん妄 高齢者の場合、認知症による徘徊や、せん妄による見当識障害との鑑別が必要です。これらは記憶障害が持続的で、日常的な技能も低下するのが特徴です。
てんかん後朦朧状態 側頭葉てんかんの発作後に、自動的な行動と記憶の欠落が起こることがあります。脳波検査で鑑別します。
物質関連障害 アルコールや薬物による記憶障害や異常行動との区別が必要です。
統合失調症や双極性障害 これらの疾患でも突然の失踪や記憶の問題が起こり得ますが、幻覚、妄想、気分の極端な変動など、他の症状を伴うことが多いです。
意図的な失踪 犯罪や借金から逃れるための計画的な失踪、または詐病との区別が重要ですが、これは専門家でも難しいことがあります。
診断のプロセス
- 詳細な問診 本人と家族から、遁走前の状況、ストレス要因、遁走中の行動、回復後の状態などを聴取
- 身体的検査 脳の器質的疾患を除外するためのCTやMRI検査、脳波検査
- 心理検査 解離体験の程度を測定する質問票(DES Dissociative Experiences Scaleなど)
- 薬物検査 物質関連障害を除外
治療とケア
心理療法
精神療法的アプローチ 解離性遁走の主な治療は心理療法です。
- 支持的精神療法 安全な環境を提供し、患者の不安を軽減し、現実との再統合を支援
- 認知行動療法(CBT) ストレスへの対処法を学び、解離を引き起こすトリガーを認識・管理
- EMDR(眼球運動による脱感作と再処理法) トラウマ記憶の処理に有効
- 精神分析的心理療法 根底にある無意識の葛藤を探る
記憶の回復について 失われた記憶を無理に回復させることは、時に有害となる場合があります。記憶が戻らなくても、現在の生活を安定させることを優先します。記憶が自然に戻ってくる場合は、それを支持的に受け止めます。
薬物療法
解離性遁走に特化した薬はありませんが、併存する症状に対して以下の薬物が使用されることがあります。
- 抗うつ薬(SSRI) うつ症状や不安の軽減
- 抗不安薬 一時的な不安の軽減(依存性に注意)
- 気分安定薬 気分の変動が大きい場合
入院治療
以下のような場合、入院治療が検討されます。
- 自傷や自殺のリスクが高い
- 症状が重度で外来治療では対応困難
- 安全な環境での集中的な治療が必要
- 社会的支援が不足している
予後と再発予防
予後
解離性遁走のエピソードは通常、数時間から数日で終わり、多くの場合は完全に回復します。ただし、遁走中の記憶は失われたままのことが多いです。
再発率については研究が限られていますが、根底にあるストレス要因やトラウマが解決されない場合、再発のリスクが高まります。
再発予防のための対策
ストレス管理
- ストレスの早期認識と対処
- リラクゼーション技法の習得(深呼吸、瞑想、ヨガなど)
- 適度な運動習慣
- 十分な睡眠と休息
サポートシステムの構築
- 信頼できる人との関係維持
- 定期的な心理療法の継続
- サポートグループへの参加
トリガーの認識と回避
- 解離を引き起こす状況やトリガーを特定
- 可能な範囲でトリガーを回避
- トリガーに遭遇した時の対処法を準備
定期的な経過観察
- 精神科医や心理士との定期的な面談
- 症状の悪化サインの早期発見
- 必要に応じた治療計画の調整
家族や周囲ができるサポート
遁走中の対応
警察への通報 家族が突然失踪した場合、まず警察に捜索願を出すことが重要です。解離性遁走の可能性がある場合、その旨を伝えましょう。
情報の記録
- 失踪時の服装、所持品
- 失踪前の様子や言動
- 最近のストレス要因
- 行きそうな場所
発見後の対応
焦らず穏やかに接する 本人は混乱し、恐怖を感じている可能性があります。責めたり、詰問したりせず、まずは安全を確保し、医療機関を受診しましょう。
記憶を無理に取り戻させない 「思い出して」と圧力をかけると、かえって症状を悪化させることがあります。記憶は自然に戻ることもあれば、戻らないこともあります。
専門家のサポートを受ける 精神科医や臨床心理士の指導のもと、適切な対応を学びましょう。家族自身もカウンセリングを受けることが有益です。
日常生活でのサポート
安全で安心できる環境
- 批判や非難を避ける
- 予測可能で安定した生活リズム
- 過度なストレスを避ける
コミュニケーション
- 本人の気持ちを傾聴する
- 困っていることがあれば一緒に考える
- 無理強いせず、本人のペースを尊重
見守りと適度な距離
- 過保護にならず、自立を支援
- 一方で、危険な徴候があれば早めに専門家に相談
- 家族自身の健康も大切にする
よくある誤解と正しい理解
誤解1 「わざとやっている」「演技だ」
正しい理解 解離性遁走は本人の意思でコントロールできるものではありません。無意識の防衛機制が働いた結果であり、演技や詐病とは根本的に異なります。
誤解2 「記憶喪失は永久的」
正しい理解 多くの場合、自分のアイデンティティに関する記憶は回復します。ただし、遁走中の出来事の記憶は失われたままのことが多いです。
誤解3 「特殊で稀な病気」
正しい理解 確かに頻度は高くありませんが、強いストレスやトラウマを経験した人では起こり得る病気です。正確な統計は難しいですが、災害後などには発生頻度が上がります。
誤解4 「再発は防げない」
正しい理解 適切な治療とストレス管理により、再発リスクを大幅に減らすことができます。根底にある問題に向き合い、対処法を学ぶことが重要です。
まとめ
解離性遁走は、耐え難いストレスやトラウマから心を守るために、無意識のうちに発動する防衛機制の一つです。突然の失踪、記憶の喪失、予期しない場所での覚醒という劇的な症状を示しますが、適切な理解と治療により回復が可能です。
重要なのは、本人を責めず、病気として適切に対処することです。精神科医や臨床心理士などの専門家のサポートを受けながら、ストレスの軽減、トラウマの処理、健康的な対処法の習得を進めることで、症状の改善と再発予防が期待できます。
もし自分や身近な人に解離性遁走の症状が見られた場合は、早めに専門医療機関を受診することをお勧めします。適切な診断と治療により、より安定した生活を取り戻すことができます。

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